2017年8月30日水曜日

小々枝通信④

自律と他律について ②

先週、このテーマで考えてみて、もう少しわかりやすい具体例を挙げると、

具体例①作家とパフォーマーが一致していない場合

・作家「動物が好きだから、将来獣医さんになろう」

→獣医さんになるために必要科目の勉強をしない。

具体例②自分で演出(要求)する場合

→(パフォーマーに要求)
必要科目の勉強をし始める。

→(作家に要求)そこにたどり着くまでの道のりを算段する。

具体例③他者に演出(要求)される場合

→(パフォーマーに要求)
勉強した方がいいよ。
→(作家に要求)
本気で獣医になりたいなら、必要科目ぐらい調べたらどうだ。もう2度と獣医になりたいなんて言うんじゃない。

(相手がパフォーマーをみて作家に要求する場合、怒っている場合が多い。)

具体例④他者の要求が間違っている場合

→(パフォーマーに要求)
裏口入学が出来るから勉強しないで貯金しなさい。
→(作家に要求)
もっと言っていこう!
努力しなくても言っていたら自然となっているよ!

(言っていたら、自然となっている。は、努力したうえでいろんな人に他律アドバイスしてもらえる状況を作ること以外にはならない。)

さて、具体例はこんなところでしょうか。長くなったので、師弟関係における自律と他律についてはまた次回にいたします。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2017年8月18日金曜日

小々枝 通信その③

自律と他律について ①

先日、詩の学校にて、應典院の秋田住職が「自律」と「他律」についてお話されていました。

アメリカのマシュマロテストで、3歳の子どもに待てをさせる実験をして、40年後、自律心を働かせることが出来た子どもとそうでない子どものさまざまな「成功度合い」を研究したものがあるそうです。(待てが出来た子の方がいい結果が多いようです。)これはアメリカの自律ですね。

日本で自律について話すなら、「ののさま」という尊い方がかなしまれないよう、子どものうちは自律が出来るけれど、大人になると「他律」されざるを得なくなる。とのことでした。

そのとき住人は、「大人になると他律に頼らざるを得なくなる」がなぜかしっくり来なかったので、しっくり来るよう考えてみました。

演劇は、自律と他律、両方とも必要とします。セルフコントロールし、また他人にもそれを手伝ってもらいます。

演劇でいうセルフコントロールとは、では一体なんなのでしょう。

まず人間は
思ったり、考えたりします。本人が意図することは、発信するしないに関わらず、「作家」の役割です。

自分の中に作家がいる。ということです。

次に行動します。
行動することはパフォーマーの役割です。これは他人にみえる部分ですね。

行動する自分は、演劇作品に出演するしないに関わらず、パフォーマーです。

パフォーマーは他人にみえるため、
ここからは、演出家が登場します。

演出家というのは、「要求」する人を指します。

本人がやりたいこと、思ったこと、意図したこと(作家)と
本人がとった行動(パフォーマー)が一致しない場合、

演出家は、①作家の意図と、②パフォーマーの意図と③周りの環境を、きちんと読み取る、読解し、①~③のどれかに要求をします。

これを本人がやる場合は「自律」で、他人に手伝ってもらう場合は「他律」ですね。

なるほど、確かに大人になると「他律」に触れる機会が増えそうですね。

来週、これの具体例と、師弟関係における自律と他律について考えてみたいと思います。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2017年8月10日木曜日

小々枝 通信その②

小々枝 通信その②

文化と犬について。

殺されないために文化がある。
頭のいい人は考えました。すごい頭がよくても、すごい才能があっても、武力には敵わないのだ。

よし、良心や道徳というルールを作って、武力で殺されないようにしよう!

殺処分される犬は、しつけという文化がなされていなかったり、人間を怖いと思わせた場合に、それ以上手のつけようがないと判断されたからだ。

とある保健所2件はすぐ隣にあるのに、都道府県が違うために方針が違い、片方は殺処分0を目指す試みをし、もう片方は、特に何もしない。これで実際の殺処分数が大幅に違う。

大正区のアトリエの近くには、マスティングスティフという中国で大きければ大きいほど値段が高く、ステイタスになる犬がいるのだけど、そいつがよぼよぼの小さなおばあさんに連れられている。

正直言ってアトリエ小々枝の住人は怖いと思っている。小型犬とか一噛みで殺した事例や、のしかかって殺した事例だってある。

ペットというのは、人間とその動物との間に人間から文化(ルール)を提供し、それを守ってもらうという仕事の依頼をし、ご飯を支払うので、ここにいてください。ということだと住人は解釈する。
文化は人間を守るためにあるのであり、自分が周りから殺されないようにするためには、絶えず自分の文化を育む必要がある。

アトリエ小々枝のワークショップでは、自分で自分を絡めとっている思考や身体に気づき、自分が周りから殺されないようにするための文化を育むことを目的としている。

そのためのカリキュラムなども今後築きますが、学校教育と違うのは、与えられるものではなく、本人が自分で選択し、考える力を自分で養うことなのである。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

小々枝 通信その①

小々枝 通信その①

猫について。
大正区にある森林浴アトリエ小々枝。
商店街で可愛がられているノラ猫がやってくる。
天然の猫カフェなのである。

可愛がられているというのは推測で、
この商店街の和菓子屋さんのおじちゃんが亡くなってから
うちにやってくるフルーツパーク不知火は少し痩せた。

ちょうどうちはナワバリで、よく巡回してくる。
ナワバリにいる猫1匹の匂い(猫パス)を手につけて歩いていると、
そのナワバリの猫はちょっと仲良くしてくれる。
しかし、一歩でもその界隈のナワバリを出ると、その猫パスは通用しない。
すごい!業界みたいだね!

ご近所の噂好きのどんみたいなおばさんがいて、
向かいのおばさんは、とりあえず同調しておこう。
みたいな感じであるのだけど、
どんは猫が嫌いらしい。

でも猫が嫌われる理由ってなんだろう?
①おしっこやフンをされると困る。
②ご飯を欲しがり、言葉が通じない。
③引っかかれたら爪からばい菌が入る。
④ふえる。

こんなところだろうか。

さて、地域猫という特定の飼い主がおらず、
共同体で飼われている猫がいる。

上記の対策はこんな感じで行われている。
①みんなで掃除しよう!
②特定の場所でご飯をあげてしまおう!
③動物病院で爪を切ったり、洗ったりしちゃおう!
④避妊手術をして、した猫の耳はVの字にカットしちゃおう!

みたいな感じなのである。
もちろん穏やかに過ごしているように見える猫もいる。
しかし、身を守ったり、屋根から落ちないための爪を奪い、
さらには自分の意思でなく、性器を奪われるのはどうなのか。
そして、アンチ地域猫派とかが無差別殺猫を行ったりすることもあるそうだ。

そもそも、こういう問題が起こるのは、猫が大きいからだ。
大きいというのは、ネズミより大きいということだ。
犬より大きいと戦闘力が高すぎて周りの生態系と適応しない。

しかし、ネズミより大きいと、
人間の都合で駆除するという考えと、
人間の都合でペットとして飼うという選択肢が両立する。

ハムスターとネズミの違いは凶暴かどうかだと思う。

天然の猫カフェである小々枝。
住人はそんなことより、
猫と猫のコミュニティと、猫と人のコミュニティ、ネットワークに関心がある。

彼らがふらっと訪れるとき、そこには何らかの意思がある。

その姿を通して、言葉が通じない彼らとのコミュニケーションを図っていきたい。

そうすることが、言語やすでにあるシステムだけを信じないで
人間を研究する学問である演劇のトレーニングや実践になっていると思うのである。

森林浴アトリエ小々枝 住人より