小々枝通信⑥
日常に何もプログラミングしないならそれは作家ではない。
私の知らない人と会いたい。
場所を持ってみて、あまり頭を使わなくても人と何かすることが出来るのだなあと思った。別のところに頭のリソースをさけるので、ものすごくシンプルに個展のキャスティングが出来る。
ひとつの場所に、時間ごとに人を張り付けて展示しているように思っている。
いびつな集合体の展示は面白いけれど、まだいいかなと思う。
今「自分で選択出来ないもの」五感にゆだねるということに興味がいっているのは、無意識のうちに準備をしていて、自分の知らない人に対して身を投げていくということを昔よりも自分のコントロールの効かなさそうなところでやろうとしているのだと感じる。
日常に何もプログラミングしないならそれは作家ではない。
ドラマ(反転することによる普遍性)を描く劇作家は、人と人が出会うことによって生まれる人間の機微を描く。
そこには、この人とこの人が出会うと、こういう効果が期待出来るという目論見がある。
しかし、実生活でその人とその人を結びつける。というプログラミングをする人は少ない。
私は劇の台本を書くとき、特定のタイプの人がある言葉を言ったり、言われたりすることによって、実際に存在する人物が、どのようなフィードバックを日常でされるか、何に「気づく」かを想定してプログラミングする。
プログラミングをすることは、劇の台本を書かなくても出来る。劇作をするかどうかは別として、私は作家業が好きなようだ。
場所とカレンダーに人間を展示していく。それは個展であり、標本である。
月ごとにチラシをまくのは、これは、月ごとの時間の展示だからである。
私はここ、森林浴アトリエ小々枝に面白い人を張り付けていく。
22日〜24日はイベントがあるので、要チェック!
22日 18〜21時 俳句にのって外へ出よう(作らない句会)第2部
23日 19〜22時 進路を決める会。多数決で。
24日 15時〜 パンの動画をみる会(おいしいパンと紅茶付き)
森林浴アトリエ小々枝 住人より
2017年9月18日月曜日
2017年9月6日水曜日
小々枝 通信⑤
自律と他律について ③
師弟関係における自律と他律について。
詩の学校がひと段落ついて、みんなでお菓子などを食べているとき、秋田住職と少しお話する機会があり、自律と他律について①で書いた違和感について聞いてみた。
大人になったら他律がそんなに必要なのでしょうか?
師弟関係など、他律が必ず悪い作用をわけではない。とのことでした。
他律というのは、前回の話(自律と他律について②)からもっと具体的にいうと、相手を知ることである。
相手を知る最も効率的な関係性は、師弟だと思う。次に恋愛、親子なのだと思う。
なぜなら、わざわざ意図的に自分自身を晒し、相手に見せていく(他律する)必要がお互いにあり、それをお互いに要求する関係性であるという理由づけまでついている。
弟子がはじめは他律だったが、そこから自律になっていく過程で師匠との対立関係が生じる。関わるということはそういうことなのだが、相手を知っていくなかで、自分のことがわかっていき、自分自身になっていく、いわゆる守破離が起こる。
恋愛だと、イチャイチャ期から、ケンカをし始め、そのうちお互いの距離の取り方が分かるようになる。
赤ちゃんでいえば、従順な時期から、イヤイヤ期になり、自分で判断できるようになるということだろう。
みんなちがってみんないい
は、本来そこに「だから自分で責任とろうね。」が入っているのだが、お互いに干渉せずに、責任逃れするための都合のいい隠れミノになっているようだ。
(本当は、責任という言葉自体を使わなくていいくらいセルフコントロール出来る世の中になればいいのだけど。)
対立構造が生まれたときに、その問題に対して向き合うことで、ようやく自律(セルフコントロール)できるようになるのだ。
師匠に関していうと、自分の文脈を手渡し、相手の自律を見つめることで新しい他律を手に入れるのである。
相手を知ることで自分を知る。これを繰り返していくことで、どこまでも遠くへいけるだろう。
支配することと他律は違うということさえおさえておけば、師弟関係は、非常に便利な他律ではあるなあと思った。
森林浴アトリエ小々枝 住人より
師弟関係における自律と他律について。
詩の学校がひと段落ついて、みんなでお菓子などを食べているとき、秋田住職と少しお話する機会があり、自律と他律について①で書いた違和感について聞いてみた。
大人になったら他律がそんなに必要なのでしょうか?
師弟関係など、他律が必ず悪い作用をわけではない。とのことでした。
他律というのは、前回の話(自律と他律について②)からもっと具体的にいうと、相手を知ることである。
相手を知る最も効率的な関係性は、師弟だと思う。次に恋愛、親子なのだと思う。
なぜなら、わざわざ意図的に自分自身を晒し、相手に見せていく(他律する)必要がお互いにあり、それをお互いに要求する関係性であるという理由づけまでついている。
弟子がはじめは他律だったが、そこから自律になっていく過程で師匠との対立関係が生じる。関わるということはそういうことなのだが、相手を知っていくなかで、自分のことがわかっていき、自分自身になっていく、いわゆる守破離が起こる。
恋愛だと、イチャイチャ期から、ケンカをし始め、そのうちお互いの距離の取り方が分かるようになる。
赤ちゃんでいえば、従順な時期から、イヤイヤ期になり、自分で判断できるようになるということだろう。
みんなちがってみんないい
は、本来そこに「だから自分で責任とろうね。」が入っているのだが、お互いに干渉せずに、責任逃れするための都合のいい隠れミノになっているようだ。
(本当は、責任という言葉自体を使わなくていいくらいセルフコントロール出来る世の中になればいいのだけど。)
対立構造が生まれたときに、その問題に対して向き合うことで、ようやく自律(セルフコントロール)できるようになるのだ。
師匠に関していうと、自分の文脈を手渡し、相手の自律を見つめることで新しい他律を手に入れるのである。
相手を知ることで自分を知る。これを繰り返していくことで、どこまでも遠くへいけるだろう。
支配することと他律は違うということさえおさえておけば、師弟関係は、非常に便利な他律ではあるなあと思った。
森林浴アトリエ小々枝 住人より
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